2013年9月(final)
足かけ3年にわたる五十三次のたびも今回、いよいよ最終章を迎える。ここに至るまで堅忍不抜、ともに走ってきた仲間である。一路平安、全員無事に京都参上大橋に辿り着きたい。しかしその願いもむなしく端から波乱含みの展開となった。まず有力メンバーのヤスイさんが参加できないとのこと。一騎当千の兵を失い遺憾千万である。参加できないならせめて還元してあげたい。
そして緊褌一番いざ名古屋を出発しようとしたまさにその時、さらなる不幸の知らせが伝わってくる。満を持して名古屋に前泊していた気炎万丈の士、青の9号さんが身内のご不幸のため急きょ福岡に戻ることになったのだ。その一報に接した途端(塗炭)の苦しみであった。そして後述するが行程2日目にもさらなる不幸に見舞われようとは、この時はまだ知る由もなかったのである。
さあ気を取り直して今回参加の5人のメンバーを紹介しよう。まず走る歴史学者、ブログの泰山北斗アヤベーダさん。今回のツアーでも博学多才ぶりを遺憾なく発揮してくれた。そして5月の信州ツアーより参加していただいているアサノ先輩。私とは37年来の知己である。私が師と仰ぐ百戦錬磨の自転車野郎である。寛仁大度のスリッパ野郎はミッキーさん。走る布袋腹である。莫逆の友のT橋先生。自転車のみならず仕事そして人生に至るまで高論卓説を拝聴させていただいている。温厚篤実な私の盟友である。そして私ことドクターK。最近老眼が進行してきたので、今回も超拡大版の地図を用意した。これでバッチリ道案内できる。老眼大統領である。

9月22日(日)鳴海宿〜関宿 90km
取りあえずこの5人がそろい、名古屋鳴海宿を出発。ここは前回不覚にも道を間違えた宿場である。捲土重来を期したのだが今回またしてもミスった、どうなつてんの? 尤も私の人生何度も道を踏み外している。軌道修正なら任せてほしいって、違うか?
 次なる宮宿では熱田神宮にお詣りする。ここは三種の神器のひとつ、草薙の剣をご神体とする、ヤマトタケルゆかりの神宮である。今回の行程では、ここ以外にもヤマトタケルゆかりの地がいくつか点在している。最近古事記にはまり、ヤマトタケルに心酔している私にとっては願ってもないことである。
江戸時代にはここ宮宿より七里の渡しで海路、桑名宿へ向かっていた。海路で向かうとエジプトまで行くことにならないか?そこで我々は陸のルートを選ぶ。陸ルートを行って就活でもするつもり? いやその手は桑名の焼き蛤よ、というわけで桑名宿では老舗の丁子屋で焼蛤をいただく。アサノ先輩とは学生時代によく麻雀をしていた。その際、このフレーズ「その手は桑名の焼蛤よ」と張り合っていた。あれから30数年の星霜を経てここへ至るとは。思わず呵々大笑する。
焼蛤でゆっくりし過ぎた。次の四日市宿へは全速力で向かう。ここでは名物、笹井屋のなが餅をいただく。石薬師宿へ向かう途中杖衝坂を通る。伊吹山での戦いに敗れ、弱り切ったヤマトタケルが杖をついて登っていったと伝えられている。こんな激坂を気息奄々登っていったタケルの心中、いかばかりだったろうか。惻隠の情を禁じ得ない。1900年前に思いをはせる。
 石薬師宿を経て庄野宿へ。ここでは是非ヤマトタケルを祭ってある白鳥塚古墳へ立ち寄りたかったのだが、時間不足でパス。しようのないことである
 亀山宿、ここも見所の多い宿場だがさらっと流す。翌朝早起きしてもう一度来ることにしたのである。またこの宿場から往復7kmほど寄り道すればヤマトタケルの墓、能褒野王塚古墳へ行けたのだがやはり翌朝行くことにする。もう夕陽が山の端を茜色に染め暮色蒼然と黄昏が迫っているのだ。道を間違えぬよう集中する。集中タコかいな。途中高速の高架下に広重の五十三次の浮世絵が描いてある。これはなかなかに高架的である。私はこの高速に親近感が湧いた。親近高速、思わず胸に圧迫感を覚える。走行中はこんな風に駄洒落を考えていることが多いが、たまには妻のことも思い出す。走行の妻である。
 やっと宿泊地の関宿だ。最後はダイビングするようにして宿場に到着。宿〜場ダイビングである。ああ、肩が凝ったれす。ゆっくり風呂に浸かり乾杯。羽化登仙の夜は更けていく。