大分市の高等教育機関で教鞭をとる情報工学博士・徳安達士さんは学生時代、登録選手として活躍していました。就職をし家庭を持ち、趣味として楽しく自転車と付き合う道をいったんは選びます。
ところが、研究助成金について調べているうち、ヤマハ発動機スポーツ助成財団の活動を知り、再び情熱が戻ってきます。国内ではマイナースポーツでしかないロードレースの魅力と自らの情熱を訴えて、見事第2期生に選ばれました。
幸せと引き換えに影を潜めた強さを取り戻すために練習を再開、大分〜久住120kmのコースをave.30km/h独走できるまでに回復。2008年7月20日〜8月24日の間、憧れのフランス自転車留学を実現させることができました。これはその貴重な体験レポートです。

 

8/2 Cyclo Spoltives Courir pour la Paix 160km

この大会は、日本人の佐多保彦氏が主催する大会でDijon付近にあるお城がスタートゴールに設定されていた。平和のために走ろうと訳すのか、大会の趣旨が大会の名前になっていた。  
昨年、佐多氏の招待によりベルナール・イノーが長崎と広島を訪ねたことがきっかけで開催が決定した日仏の平和を祈願したサイクリング大会だ。広島と長崎から2名、僕と相川選手(BSエスポワール)がステージ上で紹介された。
コースは160kmと110kmの2部門に分かれていて、僕らが紹介されている間に参加者達はスタートしていった。僕と相川選手がスタートしたのは、110km部門の選手の遥か後方、160km参加者は影も見えない。しかたなく110kmの選手達と一緒に行こうとするが、ペースが結構早い。日本のサイクリング大会とは本質が異なり、ほとんどレース並みのスピードでサイクリングが進行していった。
僕はこの数日で調子が戻っていたので、110kmグループの先頭まで上がろうと考えた。脚と相談しながら前方に上がっていく。そして、少し長めの登り区間に差し掛かったところで第2集団に追いついた。大柄の選手を先頭に大きな集団ができていた。その集団を横目にペースを上げて抜いていくと、その大柄の選手はイノーだった。さっきまで一緒にステージにいたのにこんなところまで来ているなんて。
このフランス遠征、ルイノー氏との縁は最後まで続くことになるとはこのときは微塵も思わなかった。

110kmの先頭集団で高速サイクリングを楽しんでいると、70km地点ほどでコース分岐に差し掛かり、選手がほとんどいなくなってしまった。
そして、160kmをのんびり走りたい選手達と僕らを含む10名ほどの集団ができた。周りの選手達を見るとみんな50歳代以上に見えた。明らかに60歳以上の選手もいる。平均速度もある程度高いし、みんな走り方に無理がないので一緒に走って行くことにした。  
110km地点になると、淡々としたコースと緩急のないペースに飽きてきた。まだ40kmもあるので、早く家に帰りたくなった。これまではたまにしか先頭に出なかったが、しばら
く自分のペースで集団を引き続けることにした。140km地点で厳しい登りが始まった。そこで集団に別れを告げてペースを上げた。自分のペースでじっくり走れたので調子が戻ってきているのがわかった。全開近くまで追い込み、負荷をかけて筋肉に刺激を与えつつ下りも攻めてゴールに辿り着いた。
 大会終了後、佐多氏からカクテルパーティに招待されていたので行ってみると、そこには氏の姿がない。ご自身も110kmのレースに参加されており、あまりの疲労に疲れて休まれていたらしい。イノーはあれだけ追い込んで走っていたにも関わらず、ステージの上で元気な姿を見せていた。

8/4 MOYAUX 100km(25km×4fois)

Cyclo sportivesが終わり、疲れもたまっていたが新しいポジションに慣れたかったので昨日も120kmほど練習した。日本に比べると圧倒的に信号の数が少なく、路面抵抗も高いので例えば同じ3時間を走るにしても練習効果が抜群だ。
その分、練習後の疲労も多いが今は自転車に乗り続けられることが幸せで仕方がない。身体に残る疲れと走ることの爽快感が、今、自分が生きているという実感として思えた。
今日のレースはElbuefから近く、車移動45分ほどで到着した。フランスの大会は、午後に開催されるのが普通で、14時くらいから受付が始まり、その1時間後にスタートする。今日のコースは1周25km、スピード区間と登り区間に分かれていた。とにかく今日は前で展開し続けることを頭に置いてスタートした。
家を出るときに、ホームステイ先の大家さん(以下、アニー)から「コース上に馬が出るから気をつけてね。」と言われた。アニーは僕の母とも年齢が近く、母親のような存在に感じた。嬉しいことに僕のことも気に入ってくれているようで、毎晩の食前酒を食後まで付き合わされた。この人から時間の楽しみ方を学んだ気がしている。
数独という日本の頭脳ゲームがフランスで大流行しており、僕はフランスで数独に出会った。アニーにルールと解き方を教えてもらった。僕は今でも数独をやるときはフランス語で数字を考えるようにしている。

レースはいつも以上にハイペースの展開となった。コース上に急カーブが少なく、道も広いので集団の先頭ではアタックが続いている。後ろは地獄だろうなと思い、振り返ると100人近い選手が縦に伸びていた。僕は先頭から10番目くらいにつけていて、自分の調子を探りながら走っていた。前ほど位置取りの難しさを感じなくなり、「こうすればあの場所にいける」とか「ここで踏めば楽な位置を保てる」とか、コツがわかってきた。このあたりは、自分の今までのレース経験とセンスが活きているのだろう。  
しかし、ここまで速いペースでのレースは僕の経験には少なく、現役の頃ならいざ知らず、今の僕には結構厳しいものがある。ただ、調子は良く、集団前方でアタックを潰したしり、自分からアタックを仕掛けたりすることができた。逃げ集団を作るほどのアタック力がないので少し逃げてもすぐに捕まることの繰り返しになった。だが、これを打破できる選手が上に行くのだと思った。

平均時速45km/hオーバーのレースは感覚が研ぎ澄まされる。ハンドル、ペダル、サドルから、要するに身体が自転車に触れている部分から伝わってくる振動が路面状況や速度を教えてくれている。とにかく完走することが第一歩と思いながらも、自分の身体が動き出しているのと、ロードレースの楽しさに興奮した。  
コース上に設けられた山岳賞ポイント、7%ほどの登りが約800m続く。その区間に差し掛かる1km手前、右に曲がっていく下りは完全に森林の影に覆われる。突然僕の視界は真っ暗になり、遠くに見える選手達の黒い影だけが方向を示した。
澄んだ空気に強い日差し、日向でサングラスを外そうものなら目を大きく開けていられない。こうした環境に目が慣れてしまったあとにやってきた暗闇の世界、しかも路面には砂利が浮いている。他の選手には見えているのか、このコース状況を知っているのか回りのスピードは変わらず、僕の恐怖心がブレーキを引いた。
下り区間を抜けると視界が戻り、自分の位置が下がっていたのが目に見えてわかった。加えて、先頭は山岳賞取りにペースが上がった。誰もインナーギアに変速する様子はなく、ギアはアウターのままで踏み回している。どんどん選手達に抜かれていく。運動の強度が一気に上がった。
ここまでの平地でひたすら温存していればよかったと思いつつも、同じくアタックを仕掛け続けた選手たちはまだ仕掛け続けている。必死で耐え、大集団の中ほどで山岳賞ラインを通過できた。次の周回は結構ヤバイと自分でわかった。周回を終えるまでの平地区間でもスピードが下がることはなかったが、無理をして集団の前方までポジションを上げた。

2周回目。平均時速は40km/hを超えている。平地区間は相変わらず最悪の路面状況、しかし選手達は逃げを決めるべく代わる代わるアタックをかけ続けている。誰に指示されるわけでもなく、単純に自分が勝ちたいから自分からアタックを仕掛ける。勝ちたいという自転車野郎の本能的行為を繰り返し、勝利のための力とタイミングを身につけた者が上がっていくのだ。  
この周回は、暗闇の下り区間をいかにこなすか考えながら平地区間を走った。だけど集団のスピードの変化に対応しているだけで相当な疲労感に襲われる。下り区間に入った途端、前輪が左に滑り、それと同時に左前方にいた選手がパンクした。パンクの音と前輪の滑りでまたしても減速してしまった。
視界は1周目に比べても良く見えるようになったが、路面状況までは把握できていなかったのだろう。だが、今はそれどころじゃない。次はあの登り区間が待っている。僕には800mの坂をアウターギアで踏み抜ける脚は残っていない気がしたが勝負に出ることにした。
自転車に乗っている以上は速度を上げて走ることを考えるだけ。自分が何をするためにフランスでレースを走っているのか、その問いに応えるべく限界まで走ると決めた。  
100%の全力走行、その限界は近い。呼吸は乱れ、脚は止まり、心臓は破裂寸前。気持ちは前へ、だが心と身体は別物なのだ。集団は山岳賞ポイント前の200mで僕を置き去りにしていった。この状況からなんとかなるなんてとても思えないが、最後まで全力で走ることにした。

集団から切れても最下位だったとしても、走りたいので惨めな気分にはならない。むしろ次に繋がる良い糧になる。そう思いながら走り続け2周回目を終えた。すると後ろから3人が追いついてきた。どうやら僕よりも先に切れた選手がいたらしい。それにすでにレースを諦めて、帰り支度を始めている選手もいるようだった。このときフランスに来て初めて、自分がレースを走れるようになりつつあることに気付いた。  
3人の集団に合流し、4人の先頭交代でゴールを目指す形となった。顔も名前も知らないフランス人が今は仲間のように先頭を交代して走っている。自転車は国籍人種なんて関係はない、それからヘルメットからはみ出ている真っ白な髪を見ると、爺さんになっても自転車を楽しんでいいのだなと思えた。やっぱり自転車は良い。  
3周目の平地区間、前を引けるのが僕ともう一人だけになった。この平地区間で2人が脱落していった。そして登り区間で最後の一人も脱落してまた一人旅になってしまった。残り25kmをボロボロになりながらも走り抜き、初めて完走することができた。それにしても疲れた。