Fixedの悦楽」「扉を開けたら」「イベントに出よう」と、多くの寄稿を寄せて下さる名古屋在のNさんは、大人の固定ギア愛好家ですが、ある老舗ショップにある旧いピストラーダに惚れ込み嫁にもらおうと画策します。が、甲羅を経た大旦那はそう簡単には首を縦に振りません。
そうこうするうちに、話は飛んで富士の樹海かアリババの洞窟か、ミノタウロスの迷宮か、最近の方にはなかなか理解できないであろうオタクの深い深い世界に沈んでいきますが・・・。はてさて、Nさんのもくろみは無事成就するのでありましょうか。
乞ご期待。
m(_ _)m

両切りのリヤハブについて、次のような記載を見つけました。
―1927年11月11日、26歳のカンパニョーロはロードレースに参加していた。
当時の自転車の変速はいわゆるダブルコグシステムといわれるもので、後輪のハブの両側に歯数の違うギアがつけられていた。上りにさしかかると選手は自転車から降り、後輪を固定してあるウイングナットを緩め、車輪の左右を入れ替えてチェーンを大きい方のギアにかけ、再び走り出すことを強いられていた。そして15秒でできると一人前といわれていた。
だがこの日、カンパニョーロの参加したレースは、イタリア北部のクローチェダウネ峠を越えるもので、そこは雪に見舞われていた。カンパニョーロは余りの寒さに手がかじかんでしまってウイングナットを回すことができず、戦線から離脱した。
この一件があってからカンパニョーロは、たとえ手がかじかんでもホイールを外せる固定方法の開発を試みた。父親が経営していた金物屋の店先で試行錯誤を繰り返して、そしてとうとうクイックレリーズを発明したのであった。 (『イタリアの自転車工房、栄光のストーリー』:砂田弓弦著、アテネ書房、1994年、p66)  また同じページに当時のダブルコグの写真がありますが、この自転車とそっくりです。ってことはカンパニョーロが現役の頃のもの、すなわち1930年代のものと推測できます。
さらに自転車全体の雰囲気は現役時代のチーノ・チネリが乗っている自転車の写真にそっくりです(同p85)。チーノ・チネリが乗っている自転車には、ヴィットリアの「マルゲリータ」と思われる変速機が付いていますが、この自転車には変速機は付いていません。
―チーノ・チネリは1916年2月9日生まれ。1938年から1939年にかけてフレユス、1940年から1943年にかけて名門ビアンキで走った。その間ジロ・デ・ロンバルディーア、ミラノ〜サンレモの二つの大きなレースを制している(同p65から要約) ということは、どうやらこの自転車はどう新しく見積もっても戦前のものということになりましょうか。

マース型のハンドルバーが使われるようになったのは、どうやら1930年代後半から1940年代になってからのようです。
1920年代まではハイゲイトと呼ばれる深曲がりのバーが使われていましたが、1930年代になると現代のマース型に近い形になるようです(『ヴィンテージロードバイク』EI MOOK 708 竢o版社、2003年、p64の写真とその説明から推測)。
この自転車にアッセンブルされている深曲がりのマース型のハンドルから想像するに、1920年代までは古くない。 また美しいアーチを描いているステムは、たぶん悪い路面からの衝撃を少しでも和らげるための工夫とも考えられます。
全体的には、タイムトライアルに使われたような雰囲気です。以上のことからこの自転車は1930年代から1940年代のもので、自宅からレース会場まではフリー付のコグで自走して行き、そこで固定歯に入れ替えレース。レース後はまたフリー付の方に入れ替えて自走して帰るというような使い方をされたのではないでしょうか。

そんな僕に大旦那が一言。「あれはアメリカから買ってきた自転車だから、前のオーナーがアッセンブルしたかも知れんよ。それにメッキは後でやり直したかも知れんね。」と・・・。 「とほほほほ・・・」なご発言ですが、まあ間違っていたって、誰に迷惑かけるわけじゃありませんしね。
2009/9/27

フレームそのものについての疑問
ここまで考えてくると、フレームワークそのものについての疑問が湧いてきます。
ひとつは「この自転車が『ガスとトーチ』になってから作られたものか、『鍛冶屋の炉』で作られたものか」ということです。
現在鉄フレームの溶接には、ラグを使いロウを火炎で溶かす伝統的なロウ付け(ラグド)フレーム、ラグを使わず銀の含有量の多いロウを溶かして接合するラグレスフレーム、そしてパイプ同士をタングステン電極から発生するアークによってチューブ自体を溶かして接合する直接電気的TIG溶接とがあります。
ロウを使わないTIG溶接は別として、ラグドフレームもラグレスフレームも、銀ロウや真鍮ロウを接着剤として、「ガスとトーチ」で溶接されています。
「ガスとトーチ」という方法が開発されるまでは、ロウを巻いたパイプを「鍛冶屋の炉」に入れて溶接されていたらしい。では「鍛冶屋の炉」から、「ガスとトーチ」による溶接に変わったのはいつごろのことなのでしょうか。
―1920年生まれのシルヴィーノ・グランディスは、13歳のときに、初めて自分でフレームを作った。当時の溶接は火を起こした炭の中にロウを巻き付けたフレームを置く方法だった。
シルヴィーノが働いていた工房ではこれを1936年まで用いていたのだが、現役のフレームビルダーでこの経験があるのはおそらく、イーリオ・トッマジーニと自分(グランディス)くらいではないかという。その後、バーナーを使うやり方を溶接に取り入れた。グランディスによると、バーナーはそれまでパイプを切断するときだけに使われていたが、イタリアで最初に溶接に取り入れた自転車職人は彼だったという(『イタリアの自転車工房物語』:砂田弓弦著、八重洲出版、2006年、p81〜82)。同書のp178にピエトロ・セレーナが炭火の中で溶接している写真があります。左手に持ったパイプを、手袋もせずに炉の中に入れている。右手は壁に隠れて見えませんが、どうも「ふいご」を操作しているらしい。写真から判断するに、ヘッドチューブとトップチューブ(あるいはダウンチューブ)とを溶接しているようです。
2009/9/27